はじめまして、佐佐木頼綱と申します。
四代前から短歌を詠んでいる家に生まれ、普段は短歌大会の選をしたりTVや講演の仕事をしながら短歌の出版社で働いています。
短歌は三十一音の短い詩です。こんなに小さい型の文芸で何ができるのか?
子供の頃から疑問に感じながら歌を読んだり先輩歌人の背中を見てきました。そして先輩のいくつかの死や遺品整理にも立ち会いました。それらの中で叙情を残せるという短歌の力に強く引かれていきました。今では一生をかける価値があるものだと信じています。
短歌をおすすめする理由をいくつか書かせてください。
短歌は5句31音、とても短い形式の詩です。
歌を詠む作業のなかでは無駄な言葉を削いでゆかねばなりません。慣用句的な言葉を自分の言葉に言い換え、気持ちが伝わる言葉にしてゆきます。
言葉を探す作業は自分の内面と向き合う作業です。
例えば「悲しい」という気持ち。「悲しい」と書き表すだけではなかなか良い短歌になりません。
なので「どれだけ悲しいのか」「どう悲しいのか」と表現を模索することになります。
たとえば「悲しくて胸がポッカリと空いているから夕焼けの光がこんなに強く差し込んでくる」
と表現するとどうでしょうか。何をどう感じた書き添えてあげると、「悲しい」とかくよりもぐっと実感のある表現になります。
この表現を模索するなかで自分の気持を深く理解したり、悲しさから一歩進むことができます。
児童生徒に短歌を教えると彼らが言葉を得て心を成長させてゆく姿に立ち会うことができます。
闘病中の方と歌集を作るなかで、苦しさの中で彼らが光を見出し、生きてゆく姿に立ち会いました。
僕が短歌を勧める一番の理由です。
僕は30代男性ですが、旅先で歌会に参加すると歳が倍以上の方たちと短歌の話題で議論したり仲良く話をしたりする事ができます。
「短歌」という共通の話題や基準が年齢や職業の隔てを飛び越えさせてくれるのです。
また歌人だけではなく、書家や茶道の方とも仲良くなれたりします。
日本文化の根っこにある短歌という基準を持って、交友の幅を広げてみませんか?
「同時代で短歌をやってればだいたい友達」
僕の短歌の先輩、高山邦男さんの言葉です。
「歌人」は短歌を作る人の総称です。
資格ではないので短歌を作り始め自負さえ持てば、誰でも「歌人」と名乗ることができます。
歌会に行くと年齢層も職業もバラバラの歌人と会うことができます。
なかには車椅子でいらっしゃる方もいますが、みんなとても楽しそうなんです。
それは「短歌」という価値観をしっかり持って、創作を試みている「歌人」だからなんだと思います。
流行り廃りがはやい現代、消費される生活はただただ疲れてしまいますが、
1400年揺らがぬ文化に自分の価値観を置いて、歌人としての人生を踏み出してみませんか。
とても豊かな世界が広がっていることを保証します。
いきいきと目をかがやかし幸綱が 高らかに歌ふチューリップのうた 佐佐木信綱
わたしの曽祖父がわたしの父を詠んだ歌です。
この短歌を読んだとき僕はびっくりしたんです。文字を追ってゆくと曽祖父の視点を借りて、幼い父の姿を見ることができる。曽祖父の微笑みやあたたかい気持ちも伝わってきた気がしました。50年前の風景に立ち会って一人の人間以上時間を生きてしまった錯覚を覚えたんです。
これは曽祖父の短歌が残っているからという特殊な例かもしれませんが、萬葉集を開けば防人の家族への気持ちや、大伴旅人が感じた梅の香りがあなたの胸に再生されるはずです。信綱は「いい歌は永遠の命を得る」と言いました。一人の人間以上の時間を生きてみませんか。
のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ 「まっすぐ?」そうだ、どんどんのぼれ 佐佐木幸綱
僕をモチーフにした父の作品です。父は怖い存在でしたが、この歌に出会ったとき「あぁこんな風に僕のことを見守ってくれていたのか」と父の温かい視線を感じることができました。
子育てをする中で痛感しますが、子供は往々にして親の愛情がわからないものです。それは愛情の量ではなく受け取りて側のタイミングの問題なのだと思います。
短歌の良さは気持ちを作品という形に残せること。注いだ愛情を短歌にして残しておけば、受け取りて側の準備が整ったときにきちんと手渡すことができます。
若い頃、創作物はすべて同等の価値だと思っていたのですが、中年期に入りいくつかの遺品整理に立ち会う中で、創作物にも「残しやすいもの」と「残りにくいもの」がある事に気が付きました。例えば大きな彫刻や絵画といった作品は保管場所の関係でどうしても破棄されやすく、家に飾れる小さな物だけが思い出の品として残される場合が多いようです。
対して短歌の保存場所は本一冊分の幅。データーなら50MBほどで残すことが出来ます。
文字媒体の日記や手紙も残しやすい存在ですが、それらは遺族以外が読むことは殆どないと行って良いでしょう。しかし短歌は短さと型ゆえに多くの人が読むことができます。また歌の出来や詠まれた素材の面白さによっては「短歌」という千年の文化の中に残り読み返されます。
20代の頃は知人に短歌を勧めるのが苦手でした。
就職氷河期だったので私を含め周囲は生活するのが精一杯でとても短歌を楽しむ余暇なんてありませんでした。不況は今も続いていますが、私自身が歌人として活動する中で
・短歌の友人たちが高齢でも様々なものに興味を持ち、生き生きと生活している事、
・人生の後半に「お金」と「作品」の価値が逆転する事、
・死後も「作品」という形で言葉や気持ちが残る事、
を見てきて、短歌を広く伝えたいと思うようになりました。
歴史があり、型がある、少しハードルのある文芸ですがそれを乗り越えた先にはとても豊かな人生の時間が広がっています。幸せな景色を広げるお手伝い、精一杯致します。